株式会社STSデジタル

『ゼロの領域に入る』…… 平成の伝説的なブランド「djhonda」を仕掛けた「売る達人」に訊く【ヒットを生む発想法】

「モノを売る達人」はどのようにヒットの兆しを見出し、実現しているのか。売れる商品とそうでない商品は何が違うのか? 今回の「社長の目」は1990年代に一世を風靡し、今も売れ続けるブランド「djhonda」を企画販売する株式会社サウスアンドウエスト・竹平克巳社長にインタビュー。インターネットが普及する前夜から、現在も変わらない【モノを売る】本質を聞きました。

文:祢津悠紀

■100億のブランドを売り上げた「達人」

STSデジタル・谷宮武将 djhonda。この「h」マークのキャップをよく覚えています。

サウスアンドウエスト・竹平克巳 社長 ええ。現在も年間5万個ほど売れ続ける看板商品です。

サウスアンドウエスト・竹平克巳社長

谷宮 私の世代にとっては平成という時代を象徴するブランドのひとつですが、ロングセラーでもあるのですね。全盛期には相当の売り上げがあったのでは?

竹平社長 全盛期の2000年代初頭では、キャップだけで年間およそ30万個、10億円というところでしょうか。他にもアパレル・バッグ・財布など。ブランドのトータルでは100億円ほどに成長しました。実はこんなものも作りました。

谷宮 えっ、djhondaのタバコが!

竹平社長 タバコ会社に発注して作りましたが商品化までは実現できず、ノベルティとして配布したものです。ホンダさんがこれをアメリカのHIPHOPの仲間に見せたら「お前、タバコになったのか!」と驚かれたそうですよ。

谷宮 (今は禁煙していますが)確かにコレは欲しい……!

竹平社長 商品化できたら、きっと売れたと思います(笑)。

■平成を代表するブランドの仕掛けは?

谷宮 今日は『djhonda』という大ヒットブランドの誕生について伺いながら、【モノを売る】ことの本質について考えたいと思います。当社はデジタルマーケティングを専門にしていますので、インターネット普及前夜の90年代の売り方からも知見とヒントをいただきたいと。

竹平社長 ビジネスは時代によって変わることも、変わらないこともありますね。

まずはdjhondaというアーティストについてお話します。ホンダさんは世界規模で成功した最初の日本人DJと言える方です。90年代に単身アメリカに渡り、世界的なDJコンテストで準優勝。95年にソニーミュージックからメジャーデビューしました。いまも現役で活動され、若い世代のミュージシャンとのコラボレーションも絶えない。レジェンドという立ち位置のDJです。

1996年から当社が彼と組ませていただいてブランド展開したことで、全国に商品を広めることができました。

谷宮 強烈に記憶しています。当時はdjhondaの音楽を知らない人まで「h」のロゴを身に着けているほどの人気でした。

なぜブランドを立ち上げることになったのでしょうか? 

竹平社長 正しく言いますと、ブランドは「すでにあった」のです。

谷宮 え?

竹平社長 当社のビジネスモデルに関わる話ですが、ライセンス契約なのです。当社では「Kuge Michiko Petit Point (クゲ ミチコ・プチ ポアン)」や「POWERWALKING」など国内外の有名ブランドのライセンスを持ち、そのロゴやデザインを活用してメーカーとともに商品を企画・販売しています。

ライセンス契約することで、本体ブランドでは価格や販路などの関係で手が届きにくい消費者も買うことができ、売り場もブランドを置けるので助かるという双方の利点があります。このようにマニアックなマーケットからユニバーサルなマーケットまでブランドを広げていくビジネスです。

そしてブランドのオーナーには売上の中からライセンス使用料をお支払いするわけですね。

谷宮 なるほど。

竹平社長 djhondaの場合も、仕組みは同じです。「h」キャップは94年ごろにホンダさんが自ら生み出し、ライブ会場などで販売・配布していました。

谷宮 いわゆる宣伝を兼ねたファングッズですね。

竹平社長 そうです。ホンダさんはいち早く「音楽とファッションの融合」を考えていました。アーティストがロゴを作り、親和性の高いファッションアイテムも同時にファンに向けて展開していく。こうしたスタイルがアメリカで生まれはじめていた頃でした。

谷宮 ファッションデザイナーではなく、音楽家の名前がブランド名になるという。いまでは当たり前になった手法の黎明期だったと。

竹平社長 ホンダさんは顔を売るのではなく、音楽一本で勝負したいという意志を持っていました。だから顔を隠しても一目で自分だとわかるロゴを作ったという意味合いもあるそうです。

谷宮 その作品が著名になるにつれて「h」ロゴも認知を得ていくわけですね。では竹平社長も御社のライセンスビジネスを通して、djhonda氏の活動を応援したかったということでしょうか。

竹平社長 はい。私はヒップホップを聞いたこともありませんでしたから、ライセンスビジネスを通して少しでもお役にたてればと思いました。

■きっかけは「イチロー」の帽子

谷宮 djhonda氏のどのような点に魅力を感じたのでしょうか?

竹平社長 もちろん、ホンダさんは偉大な音楽家です。ですが当社が注目した点は「商品を売ること」にありました。私がdjhondaを知ったきっかけはレコードではなく、イチロー選手だったんですよ。

谷宮 イチロー選手ですか?

竹平社長 90年半ば。ふと見かけたテレビのニュースでイチローが被っていた帽子が「h」キャップでした。イチロー選手の他にも、メジャーデビューしたばかりのホンダさんのファンの有名人たちが、キャップを手に入れていたんです。

谷宮 それでdjhondaの人気に目を付けた。

竹平社長 もうひとつ重要な背景があります。当時、アパレル業界にロードサイド型のアパレル店舗が生まれていました。覚えていますか?

谷宮 ライトオンやジーンズメイトのような、倉庫型の大きな洋服屋のことでしょうか。ユニクロも初期はその形態がメインでしたね。

竹平社長 そうです。都会型のセレクトショップとも百貨店とも地方のモールとも違う、いままでになかった新しいビジネスモデルでした。ライトオンさんが店舗を拡大している時だったと思いますが、私は「この業態はきっと人々のライフスタイルを変える」と直感しました。

谷宮 ライフスタイルを変える……。私もamazonや楽天などのECが出てきたときに同じ興奮を覚えました。

竹平社長 この売り場に並べるブランドを揃えなくてはならない。そう考えているときに見つけたのがdjhondaだったわけです。

谷宮 あえて伺いますが、当時、djhondaの他にも流行していたブランドやアーティストはあったのでは。

竹平社長 そうですね。しかし、決め手はあの「h」のロゴですよ。シンプルで、強い。ワンポイントでどんなアイテムにも配することができる。長く売れ続ける要素を備えていました。

すぐにソニーの伝手を頼り、ホンダさんと会い、直接交渉に動きました。もちろんライセンス契約にはメーカーや商社など競合もいましたが。

■異文化と手を組むマインドは?

谷宮 直交渉ですか。先ほどヒップホップなどのカルチャーには明るくなかったとおっしゃいましたが、アーティストとのコミュニケーションに難しさを感じたのでは。

竹平社長 私は交渉の際、音楽の話はしていません。私が話したのは2つ、このブランドは100億必ず売れる!それと「ニセモノ」と「転売」についてです。当時ホンダさんのグッズは基本的にホンダさんのグッズを扱うショップ数店舗でしか手に入らず、高額で転売されたり粗悪なニセモノが作られていました。当社とライセンス契約すれば、日本全国で大量に売ることができます。「誰でも手に入る商品にすることで、転売もニセモノもなくせます」と話しました。

谷宮 しかし希少性がなくなれば、ブランドの価値は下がるのではないですか。

竹平社長 その通りです。そうしたデメリットも含め時間をかけて何回も説明したうえで、ホンダさんは「アイテムを通して自分の音楽を知ってくれる人が増えるならいい」と判断して契約していただきました。それから現在までライセンスを任せていただいています。

谷宮 あくまでビジネスの話一本で勝負されたわけですね。

竹平社長 ええ。競合のなかには必死でホンダさんのレコードを聴き込んだ方もいたでしょうが、私は付け焼刃の知識で話しても仕方がないと思います。それよりも自分の仕事に全力を尽くしたほうがいいのです。

谷宮 djhondaというヒットブランドの裏にそんなエピソードがあったとは驚きました。インターネットが普及し、SNSやAI活用が常識となった現代にも通じるビジネスのヒントを頂いたと思います。

■『ゼロの領域』で勝負する

谷宮 最後に……竹平社長にとって「モノを売る」とは?

竹平社長 もっとも大切なのは「商品を作って売る」ことではないのです。私の言い方ですが、仕事の本質は「ゼロの領域に入る」ということだと思います。

谷宮 ゼロの領域とは。

                

竹平社長 面白い話があります。1970年代に私は「トイレ用品」を売り出したことがありました。高品質なタオルやデザインされたトイレマットなどのアクセサリーを企画販売したのですが、ものすごく売れました。

谷宮 いまでは当たり前になっている製品群ですね。1970年代に生まれたのですか。

竹平社長 そう。港町である横浜を中心に「洋式トイレ」が徐々に日本に普及しはじめた時期です。新しいジャンルの商品ですから、百貨店さんに頼み込んでコーナーの隅に置いていただきました。すると、すぐに完売してみるみる取引が増えました。

しかしもっとも重要なのは、売り出す「前」です。私がトイレ用品を企画していたとき、周囲の人は「キレイで高品質なトイレ用品があったら欲しいね」とは言っていませんでした。逆に「そんなもの、誰が買うんだ?」という反応だったんですよ(笑)。

それもそのはずで、和式トイレの中には掃除用具とボロ雑巾しか置かれていなかったのです。つまり、価値が見えない。ここが「ゼロの領域」です。

谷宮社長 私が身を置くデジタルマーケティングの現場でも、トレンドが生まれるときは常に周囲から白い目で見られます(笑)。なぜ竹平社長は「ゼロの領域」を発見できたのでしょうか?

竹平社長 1970年代の「洋式トイレ」の普及の兆候にいちはやく気づき、人々の生活の変化をイメージできたことが大きかったと思います。「売れる商品」「流行する商品」というスケールではなく「ライフスタイルの変化」に着目し続けることが大切です。

谷宮 1990年代のdjhondaの大ヒットでも同様ですね。

竹平社長 そうです。djhondaのケースでは、ロードサイド店舗という新しいビジネスモデルの出現が「ゼロの領域」でした。そこにホンダさんというスター、アーティストのセルフブランディングの潮流、汎用性のある「h」ロゴが揃ってビジネスが成功しました。

竹平社長 ご存じの通りロードサイド店舗は数年で全国数百店舗という規模に増え、売上も急増していきました。既存のアパレルショップからGMS(大型スーパー)まで商品の販路を広げ、先ほど言った「djhonda本人を知らない人まで、そのアイテムを持っている」状態になったのです。

マーケティングとライセンスビジネスは畑が違うかもしれません。しかし、価値のある仕事とは流行の後追いではなく、常に「ゼロ」を探していくことではないでしょうか?

谷宮 私は、竹平社長がされてきたことこそが本当の意味での「マーケティング」だと思います。当社の主業であるマーケティングは、一般的に広告宣伝や集客のことだと認識されていますが、本質は「マーケットを調べ、発見する」ことですから。私も「ゼロの領域」を探しています。もっとも、見つけたぞ!! と思ってもビジネスとしては失敗することもありますが……。

竹平社長 失敗は忘れてしまえばいいですよ。私はビジネスを長く続けていくうちに、うまくいかなかったことは自然と忘れるようになりました。それも「ゼロの領域に入る」秘訣かもしれませんね(笑)。

人が生きていく以上、生活様式は変わり続けます。インターネットだAIだなどと言っても「ゼロの領域」はどの時代でも必ず存在します。

社長もまだ若いんだから「ゼロの領域」を探して勝負しましょうよ!

■取材協力

株式会社サウスアンドウエスト

http://south-west21.com/company.html